流派の歴史
2015年 (平成27年) |
三代家元𠮷村華泉逝去。 吉村華洲(剛)が家元を継承し、四代家元となる |
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2012年 (平成24年) |
新法人法施行に伴い、一般社団法人 龍生華道会として申請、認可 同年、市ヶ谷に新・龍生会館竣工 |
1951年 (昭和26年) |
池坊龍生派教員華道会(現・龍生華道会)、社団法人として認可 同年、東京・市ヶ谷に龍生会館竣工 |
1944年 (昭和19年) |
二代家元𠮷村華丘逝去。 𠮷村華泉(龍麿)が家元を継承し、三代家元となる。 |
1939年 (昭和14年) | 龍生派華道会館落成(東京・柳橋) |
1932年 (昭和7年) | 𠮷村華芸逝去。 𠮷村華丘(有美)が家元を継承し、二代家元となる |
1886年 (明治19年) | 初代家元𠮷村華芸(卓次郎)、池坊より分派、「池坊龍生派」を創流 |
名前の由来
![龍紋 イラスト](https://www.ryuseiha.net/wp-content/uploads/2022/09/ryumon.png)
初代家元、華芸の出身地である、
愛知県岡崎市の城の名に因んだもの。
徳川家康がうまれたその岡崎城が
別名「龍が城」と称せられていたことから
龍の一字を冠したものです。
歴代家元
![四代目家元 吉村華洲 写真](https://www.ryuseiha.net/wp-content/uploads/2022/09/iemotoimg4.jpg)
四代目家元 吉村華洲
(2015年継承—)
龍生派の目指すいけばなにとって大切なのは
「個性の表現のためのいけばな」であるということです。
基本を押さえるための型や様式はいろいろありますが、
それらはあくまでも手段であって、
その先に一歩を踏み出すための土台のようなもの。
たとえ同じ花材を使ったとしても、
十人いたら十人の見方でまったく異なるものが生まれ、
それがその人の作風や個性になって表れていく・・・
そのようないけばなを創出することが龍生派の目的であり、
そのための活動を広めていきたいと願っています。
![三代家元 吉村華泉 写真](https://www.ryuseiha.net/wp-content/uploads/2022/09/iemotoimg3.jpg)
三代家元 吉村華泉
(1944年継承—2015年)
𠮷村華泉が三代家元を継承したのは、
弱冠十六歳の時のことでした。
当時は前衛いけばな全盛の時期でしたが、
その中で、華泉はその時手にした一本の枝、
一輪の花が持つ表情を自らの眼で捉え、
作品化することを提唱。
そこで体系付けられた「植物の貌(かお)」という方法論は、
初代以来の龍生派独自の
植物に対する向き合い方の結晶として、
流派の根幹をなすものとなっています。
![二代家元 𠮷村華丘 写真](https://www.ryuseiha.net/wp-content/uploads/2022/09/iemotoimg2.jpg)
二代家元 𠮷村華丘 (かきゅう)
(1932年継承—1944年)
昭和7年(1932年)、
初代家元逝去をうけて二代家元に就任した𠮷村華丘。
それまでは立華・生花のみを
自らの流派のいけばなとしていましたが、
新たに挿花・瓶花と呼ばれる様式を創案。
昭和10年(1935年)には機関誌『龍生』を発行開始、
また海外へも指導に赴くなど積極的な普及活動を行いました。
![初代家元 𠮷村華芸 写真](https://www.ryuseiha.net/wp-content/uploads/2022/09/iemotoimg1.jpg)
初代家元 𠮷村華芸 (かうん)
(1886年創流—1932年)
愛知県岡崎市において、
少年期より池坊の華道を学んだ吉村卓次郎は、
明治時代の新たな文化の中心として
熱気を帯びていた東京へと向かいます。
東京の池坊で活動する中で、
当時の立華生花といったいけばなが出生を重んじるあまり、
ともすると目の前の枝や花の姿を
見失っていると考えた吉村卓次郎=𠮷村華芸は、
自ら、新たに流派を興します。
1886年、それが龍生派の誕生でした。